アシジの聖フランシスコと味わう主日の福音〈年間第33主日〉
その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である。(マルコ13・32)

年間第33主日は、年間最後の主日である来週の《王であるキリスト》の祭日を迎えるに当たって、世の《終末》がテーマに語られています。では、《終末》とは一体何なのでしょう。
今日の福音(マルコ13・24-32)を読むと、何やらおどろおどろしい世界の終わりが大きな苦難とともにやってきて、その時「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って」(13・26)来られ、神によって選ばれた人々は四方から集められると書かれています。なかなか具体的なビジョンを思い浮かべづらい感じがしますが、実際、イエスが約束されているのですから、世の終わりにはこのような出来事が起こるのかもしれません。
しかし、こうした世の終わりはいつやって来るのでしょうか。それは、誰も知らないとイエスは言います。「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である」(13・32)。
新型コロナウィルスのパンデミックは、あたかも一つの時代の終焉かのような様相を帯びていましたが、しかし、これはまだ世の終わりとは違うものでした。しかし、もしかしたら、何かの予兆として与えられた試練なのかもしれませんが、それはわかりません。わたしたちは目の前にする大きな災難や出来事に対して、時としてとても無力で、なすすべがないと感じてしまうことがあります。
いつやって来るかわからない、世の終わりに対して、わたしたちはどう対処したらよいのでしょうか。もしイエスがわたしたちにその答えを語っているとしたら、それは「いつも目を覚まして準備していなさい」(マタ25・13参照)ということではないでしょうか。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていることを悟りなさい」(13・28-29)。
そして結局のところ、それは、「今、ここ」においてどのような心で《神とともに生きているか》ということが、常に問われていることなのでしょう。「彼によって選ばれた人たち」(13・27)とは、そのように、いつも《心を神のうちに目覚めさせている人々》のことなのです。
アシジの聖フランシスコは、とても単純な人だったので、彼が兄弟たちに何か訓戒を語るとしても、それはほとんどが福音書のイエスの言葉からの引用でした。しかし、それだけにそこには必要にして十分な神の叡智が溢れています。そこで、心を神に目覚めさせることについて、フランシスコが語っているものをここに引用します。
私はすべての兄弟に、乞い願います。「あらゆる妨げを遠ざけ、あらゆる心配と心づかいを打ち捨て、できるだけ完全に、清い心と純粋な精神をもって神である主を愛し、主に仕え、主を礼拝するように努めなさい」と。これを主御自身がすべてに越えて求めておられるのである。私たちは、全能の神である主、父と子と聖霊のための「幕屋と住まい」を常に造ろう(ヨハ14・23)。「起ころうとしているこれらすべての悪から逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(ルカ21・36)。「あなたがたが私にとどまり、私の言葉があなたがたの内にとどまっているなら、望むものをなんでも願いなさい。そうすれば、かなえられる」(ヨハ15・7)。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタ18・20)。「私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(ヨハ6・63)。「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハ14・6)。〈『勅書によって裁可されていないもう一つの会則の断片』〉※1
※1『アシジの聖フランシスコの小品集』庄司篤訳、聖母の騎士社、1988年、124-126頁。
