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アシジの聖フランシスコと味わう主日のみことば〈主の公現〉

2022年01月01日

学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイ2・10-11)。


 

今日の主日は、神が一人の幼子としてこの世界に来られたことが、ユダヤ民族のみならず、異邦の民にも知らされることになる、とても大事な意味をもつ福音(マタ意2・1-12)です。神の救いのご計画は、民族や文化や風習の別なく、また、敢えて言えば、宗教や宗派の別なく、世界中のすべての人々を包み込んでいるということが、公然と明らかにされるからです。

 

東方の占星術の学者たちは、当時のユダヤ教徒からすれば、救いから遠く外れた人々と見なされていました。彼らは異教徒であり、ユダヤ教の律法を守っていませんでした。しかし、天体観測と占星術に詳しい彼らは、《ユダヤ人の王》となる方が生まれるということを予見していたのです。なぜ、異教徒の彼らが、わざわざ新たに生まれる《ユダヤ人の王》を拝みに来たのでしょう。

 

彼らは、《星》に導かれていたのです。この《星》は、闇夜に光り輝く不思議な《光》でした。第1朗読の『イザヤの預言』には次のように書かれています。「〔エルサレムよ、〕起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ。闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現われる」(イザヤ60・1-2)。

 

また、答唱詩編は第1朗読を受けて、次のように歌います。「主は正義に満ちて民を治め、まことをもって苦しむ人を心にかけてくださる。主はさばきによって貧しい人を守り、しいたげる者から救ってくださる・・・主は助けを求める名もない人と、見捨てられた人を救われる。貧しくふしあわせな人をあわれみ、苦しむ人に救いをもたらされる」(詩編72)。

 

ここには、貧しく不幸せな人、虐げられ苦しんでいる人、人生の闇路の中に迷い助けを求めている人、そのような生きることの辛さや悲しみに押しつぶされそうな人々に対する、神の救いの約束が、闇に輝く《光》として象徴されています。

 

そして、東方の占星術の学者たちは、まさにそのような生きることの苦しみや悲しみに耐えている柔和でこころの貧しい人々の代表だと言えるでしょう。だからこそ、彼らは、異教徒であるにもかかわらず、心の内に確かに輝いている《光》の導きを頼りに、彼らを待っているに違いない《救い主》のもとへ馳せ参じたいという思いに駆られていたのです。

 

しかし、自分こそこの世界を支配していると自負していたヘロデ王や、自分達こそ救いを確実にしていると確信していたエルサレムの都にいた人々は、この闇に輝く《光》として来られる《救い主》の登場に、不安と怖れを抱きます。これは、とても示唆に富んでいます。彼らの心は、何を怖れていたのでしょうか。彼らの不安や怖れの気持ちは、わたしたちを神の救いから遠ざけようとする《悪魔》の正体を感じさせます。《悪魔》は《嫉妬》と《憎しみ》で人々を混乱に陥れようと常にこの世界でうごめいて働いている悪の勢力です。

 

ヘロデは言葉巧みに占星術師たちを騙し、彼らがその幼子を見つけたら、それを殺してしまおうという魂胆でした。これは、とても恐ろしく、哀しい心の状態です。ヘロデには、占星術師たちが見つめている澄み切った夜空に輝く《星》が見えていないのです。

 

この闇に輝く《星》を見ることができ、その導きに従うことができるということは、それだけで大きな《恵み》です。東方の占星術師たちはまさにそのような人々でした。彼らは、遂にその《幼子》がいる場所に導かれたのです。そして、澄んだまなざしがひたすら追い求めていた方は、ほんとうに小さく、非力な《幼子》だったのです。「彼らはその星を見て喜びにあふれた」(2・10)とあるのは、神様の《喜び》は心貧しく、澄んだ心のまなざしを持つことによってしか味わうことができないことを示しています。そうでなければ、この《弱さ》をまとった傷つき易い《幼子》を、《救い主》として受け容れることはできないでしょう。

 

アシジの聖フランシスコにとって、クリスマスこそ祭日の中の祭日でした。全知全能の神がいたいけな幼子としてこの地上に来た出来事は、神の《愛》と《貧しさ》の神秘でした。

 

世々の昔から私たちの王である いと聖なる天の父は

ご自分の愛子を天から遣わし

御子は、さいわいな処女、聖なるマリアから

お生まれになった。

今日こそ、神がつくられた日

この日を楽しみ喜ぼう。

いと聖なるみどり子、神の愛子が

私たちに与えられた。

御子は、私たちのために、道ばたで生まれ、

馬ぶねに置かれた。

宿屋にあいた所がなかったから。

天のいと高き所には、神である主に栄光

地には善意の人々に平安。

《主の降誕節のためにフランシスコによって構成された晩の聖務日課の一部※1

 

マタイ福音記者は、この《幼子》が、その「母マリアと共におられた」(2・11)と述べています。《救い主》である神は、人間の《母》を必要としました。ここに、神の底抜けの《へりくだり》をみます。《貧しさ》と《弱さ》を友とし、同じように《貧しく》、《弱い》人々にご自分を受け容れてくれるよう招いておられる神を、福音記者は、全世界の人々に今日指し示しているのです。

 

この《幼子》なる神を礼拝するに必要なのは、わたしたちの《信仰》と《希望》と《愛》のすべてを傾けることです。彼らが献げた《黄金》《乳香》《没薬》は、それを表わしています。そして、ひとたび《幼子》を知った者は、もはや《悪魔》の声に耳を貸すことはしません。彼らは、元来た道ではなく新しい道を通って、本当の自分自身に帰って行くのです。

 

 

※1 『アシジの聖フランシスコの小品集』庄司篤訳、聖母の騎士社、1988年、203-204頁。

 


 


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